ガン病棟の温もり・・・中島昭治氏を悼む

私達は、国鉄が高度成長し始めた昭和36年に、高校から直接採用される臨時普通科13回生として国鉄新潟支社に入社した。
今の昭和大橋付近に木造の校舎があった。入社が決まって直後に、鉄道学園は火災で焼失し、新潟支社の建物の一部を借りての勉強であった。
私が、親友中島昭治に合ったのは、その時である。中島は六日町の五十沢からゴム長で出てきた。当時は除雪体制もなく、五十沢は豪雪地だから当然のことだった。私はお世話になった達治さんが皮靴を用意してくれたので、靴は履いていたが、どんな服装をしていたかは、思い出せない。
 二人で、専用線の線路敷きを歩きながらお互いの境遇を話し合った。

 中島は、六日町高校で陸上部に所属していた。私は長岡高校でレスリング部だった。その時の印象では、中島は均衡が取れて精悍に見えた。私はレスリングで鍛えたが、デブッチョだった。

 駅勤務の後、車掌科に進み、やがて新潟支社でも営業部に所属して親しい交流をしていた。退職後も、毎年一回、飲み会を継続してきた。

 親友小林久雄から、中島が入院したとの連絡が入った。その翌日、妻愛子を連れて、新潟のガンセンターに見舞いに行ってきた。妻愛子は左乳がん全摘の手術の手術を受けた直後で、経過がいいので、励ましの意味で連れて行った。

 7階の個室だった。中島と奥さんが迎えてくれた。苦痛そうだが、笑顔で迎える余裕があった。
 でも、すでに黄疸が出ていた。膵臓付近のガンで、周辺の異常を治療してからガンの治療をするとの説明だった。奥さんは、環境の激変に戸惑っておられた。

それから約一月。
昨日、逝去の報に接した。
今日9月5日が葬式である。
ガン病棟の緊迫した雰囲気の中で、夫婦愛の温もりを感じたことを思い出しながら、ご冥福をお祈りしたい。