林家こん平師匠は同級生・・・努力家

高校2年生の頃の写真


私とこん平師匠は、千谷沢小学校、千塚中学校の同期生である。
千塚中学の第7回生であった。彼と運動会の仮装大会で優勝したことがある。
尾関紅葉の金色夜叉に扮した。笠井光男がお宮で、私山﨑が貫一である。
優勝の最大の要素は、笠井の演じたお宮の歩く素振り、悲しみに泣くしぐさだ。

千塚中学卒業後、こん平さん・笠井光男さんは林家三平師匠に弟子入りした。
いや押しかけ入門に近いと本人が話していた。意志の強さを試されたのだろう。
門前払いをくって、3回目に玄関を上がることを許されたそうだ。
それから3年、掃除、荷物持ちが続き本格的な練習を付けてもら得るまで3年かかった。

私の心をとらえたのは、こん平師匠のこの言葉である。
「古典落語は、時流に乗っているもの、埋もれているものを掘り起して約200本を会得するのは当然。
更に新作落語100本を必死で作った。」・・・真打になるまで、一門の後見に認められるまでに。
さらに、所作、言葉の発声、話題の転換、機転等々に挑戦し続けたそうだ。
「新潟のコシヒカリ」、「カバンに多少の余裕があります。」もこん平師匠の言葉として定着した。

舞台がはねて楽屋を訪ねると、ステテコ姿で何回も会ってくれた。
まず、声の大きさに驚かされた。張りのある声で、楽屋に響き渡るように話しかけてくれた。

写真は、まだ本格的な練習を付けてもらう前の笠井光男である。でも希望に満ち溢れていた。

一門を背負う重責に堪えて、林家一門を三平師匠の遺児たちに立派に引き継いだ。

私山崎は、長岡高校に進み、剣道部に入ろうとしていた。剣道5段の父源次郎に憧れていた。
剣道部からも誘いがあり、ほぼ決めかけていた。父が反対した。頭を打たれると鼓膜を破れる。
たったそれだけの理由で反対した。解らなかったが、「勉強に専念せよ。」だったのだろう。
体格が良かったので、レスリング部に入った。バーベルや腕立て伏せ、腹筋で鍛えた。
最盛期には、60キロのバーベルを差し上げられるようになっていた。
写真の筋肉質は鍛錬の賜物である。

レスリングでは、当時東京オリンピックの強化選手阿部さんが浪花製菓に所属していた。
オリンピック選手を相手に練習ができた。だが、全く手も足も出なかった。実力の差は格段。
バックを取られると同時にホールに持ち込まれた。頑張る余裕もなかった。
この差を知ることで、実力とは、鍛練と精神力と自分自身の瞬発力だと思った。

中越地区で高校総合体育大会の交換練習があった。普段絶対に勝てない選手がいた。
県大会の優勝候補だった。3回練習したが完敗。歯が立たなかった。県大会で2回戦に合った。
作戦を立てた。真正面に行ったら絶対勝てない。3ラウウンド目の初めに首投げをかけた。
見事にホールに持ち込めた。高校の最期に県大会2位まで上がれた。
日ソ親善レスリング大会が長岡市の厚生会館で行われ、長岡高校が高校の部で出場した。
選手宣誓を命じられた。日報夕刊の半分を飾る写真が掲載された。遥かなる思い出である。

また大学進学をあきらめていたので、人生の試練に挑戦した。和同会会長に立候補した。
長岡の各中学校の動向も調べずに、たった5人の進学生しかいなかった千塚中から立った。
不思議なことに当選した。東大や一ツ橋に進学した優秀な副会長が補佐してくれた。
創立90周年記念式典と部活の遠征準備金をプールしておき、出場権を得た部に交付した。
大きな経費が捻出された。各部に一斉に配布して無駄になる部分が解消された。

良き友を得て、互いに励まし合った。長岡駅旅行センター所長の時、国鉄からJRに移行する記念行事に林家こん平師匠が一門を引き連れて馳せ参じてくれた。
お座敷列車にも落語で乗ってくれた。