自然との共生が無くなった。

根回り1m以上の楢の巨木が枯れて倒れていた。


藤の蔓が絡みつき、やがてこの木も枯れてゆく。光合成遮断。


絡みついた藤の蔓が残り、木は枯れてしまった。


木と藤の蔓とが戦っている風景


昔 山頂付近を開墾し、農薬を大量散布して大問題に。今は荒れ果てて




中学校を卒業してから、自宅周辺の山に入ったことはない。父源次郎が秋には、良くキノコを採ってきた。
それをヒントに雨で仕事ができないので薬師様の裏山に入ってみた。
大きな楢の木が、腐って倒れている。50年以上の経っていて、近くの山々は原生林に帰っている。
昔は、杉の枝も、雑木も家庭の燃料として大切だった。春先、雪が消えて新芽が出る前に「春樹山」が行われた。
文字は当て字だが、春に雑木を刈り倒し、夏近くまで乾燥させる。田んぼの仕事がひと段落したころ取り込んで
家庭の暖房用として使った。「ぼよ」と呼ばれたが、杉の枝にマッチで火を付け、ぼよを細かく折って、それに火を移す。火力が上がった時、薪を入れて本格的な炊飯に入った。
囲炉裏でも、そうだった。おじじが何時も囲炉裏の中心で、杉の枝や「ぼよ」や薪で火力を調整してくれた。
楽しいだんらんの場が囲炉裏でもあった。生活に役立つ山々だった。
要するに自然と人間の生活が密着していたのだ。山は人が管理し、道も整備されていた。
道普請も機能していた。今は利用の無い山道を非常時に対応するために整備している。
生活との接点は失われてしまった。
これだけの資源を眠らせ、巨大な経費をかけて石油を輸入している。それも大切だが、
里山を生き返らせる対策を考えなければならない。
間伐材を利用するには、材木を利用できなければ間伐材だけを生産するわけには行かない。
地方創生の中で具体的な構想を打ち立て、地域の自然との循環関係を取り戻すことが
大切だと考えさせられた。

冬囲いについて

  


             十日町市や小国町で一般的な樹木の冬囲い

手前の樹木が雪で埋もれる。奥の2本は3分の1雪の上になるが、
枝が折れないように縄で3か所以上、絞り込まないと折れてしまう。

長岡市小国町は、十日町に匹敵する豪雪地である。

雪が降るから樹木や、出入口、車庫等を雪に対して防護する。
公共施設でも雨板の設置、玄関口の防護や橋などの落雪予防等がある。
公共が行う分野は心配ないが、個人宅では高齢化の波が押し寄せている。
樹木の囲いは、はしごの移動、縄の手配、何と言っても、
高所で枝を絞り込みは、一人では難しい。
梯子にあがって、絞り込む場所に縄を固定し、樹木に縄を二回りさせないと
絞り込みは難しい。相方が、縄を下側で回してくれないと効率が上がらない。
安全面での危険が一杯である。梯子が樹木から滑って転落する。
縄を梯子の上で絞る時、縄が切れて転落したこともある。


組織的には、シルバー人材センターや生産組合が蓄えた技術を活用して
受託するサービスもある。農村部では敷地が広く宅地内に樹木が多いので
5万円以上の出費になることが多いと聞く。


少子高齢化で、冬囲いや雪おろし、道付けと言った日常生活が危機に瀕している。
我家は妻愛子が元気で手伝うから、楽しい秋の風物誌として取り組める。
梯子を持ち上げられなくなったり、高所が怖くなったら作業はできなくなる。
昔であれば、3世帯同居が当たり前であった。


親子での助け合いも、核家族化が進んだり、就職で住所を別にせざるを

得ない状況では、助け合う事さえできない状態である。

  


国道403号線の工事状況

国道403号線は、ほくほく線の十日町駅に通う時利用した。
最初の頃は、大貝から七曲りの曲がりくねった、先の見えない
山道を運転した。狸が片道で17匹も見られた1車線半の道だった。
大貝からのトンネルが開通し、七曲の難所は半分解消されたが、
大白倉の中の道幅は依然として解消されていなかった。
 
十日町の孫祝いで久しぶりに通った。
川西町のトンネルは開通して最後の仕上げ工事が行われていた。
今冬はどうか解らないが、大型車両が通れる道路の完成がまじかである。
国鉄本社に勤務していた時、夏休みに通った。
その時、一部の道路が完成していたことを思うと、一貫性の無い道路投資は、
無駄を生むことになる。投資に見合う利用を期待してやまない。

大規模な雪崩止柵の工事

巨大なナダレ防止柵である。

雪崩防止柵の工事

ボケましたがトンネルが完成した様です。

孫祝いについて・・・心がこもったお祝いだった。

十日町の妹夫婦から孫祝いの招待を受けた。
初めての行事でどう対応すればいいのかわからず戸惑った。
ネットで調べたら、結婚式並みの豪勢な宴席もあるらしい。
会費制のご案内があったが、倍のご祝儀を包ませて頂いた。
会場で驚いたことは、お嫁さんの両親や仲人さんは、
初孫に対する大きなお祝いの包みを用意しておられた。
 
宴席では、妹夫婦が主役で、息子夫婦と孫のお披露目があった。
料理は結婚式並み、お土産もついた豪勢なお祝いであった。
この席で、仲人役の方から、妹の結納の時、小国の私の父母が、
古式に乗っ取りご馳走を出してくれたとの話を聞いた。
私は、遠くで勤務していて知らなかったが、小国にも伝統的な
行事があったことを知った。
今は核家族化が進み、このような行事に合わないが、出席させて頂いて
少子高齢化の時代にこそ、大切な行事だと考えさせられた。
次の時代を引き継ぐ新しい子供たちの誕生こそ、過疎化を防止する
最期の手段である。
乾杯の挨拶を指名され、その趣旨をお話しさせて頂いた。
祝い唄では、詩吟「松竹梅」をお披露目させて頂いた。


 松竹梅     松口月城作
壽福いよいよ開く 松竹梅
君が家今日 これ蓬莱
瓶遊び 鶴舞い 人また酔う無限の歓懐 玉杯に在り
孫が主役で両親に抱かれて中央。妹夫婦が主催者
 




孫の父親として堂々のご挨拶・・・威厳があった。


料理は次々に運ばれ、十日町の味を堪能させてくれた。


越路町のもみじ園の歴史

越路町のもみじ園は、明治29年頃神谷の大地主、高橋家の別荘の庭園としてつくられた。 約4千平方メートルの敷地内には、樹齢150~200年のもみじや山桜、カエデ類、ツツジなど多くの植物が植えられている。最も多く植えられているイロハカエデは、北から九州地方の太平洋側に野生するモミジの一種で、高橋家が事業の活動の場であった京都から優れた品種を移植したものである。 平成元年に旧越路町が寄贈を受け、紅葉の時期には夜間のライトアップも行なっており、幻想的なもみじの様子を見ることができる。 11月8日に雪囲いをして、そのご褒美に、愛子ともみじ園に行くことにした。まず、ロケーションに感動した。つい先日訪問した松籟閣を眼下に見下ろせる位置にある。朝日酒造の迎賓館的な建物を樹木の間から全貌出来る。 明治時代、朝日酒造野平沢家や神谷の大地主高橋家、宮内の摂田屋の機那サフラン酒本舗の吉澤家が盛んな経済活動を展開し、この地域で立派な文化遺産を残している。 地方創生が叫ばれているが、地域に根ざした活動を展開し、地域の発展に寄与できる社会構造を作らないと、日本は個性の無い社会になってしまうと思う。地方創生に大きな方向性を指示していると強く感じた。


もみじ園の和室
京都から移植されたイロハカエデの数々






慰安婦とは…国際大学オープンセミナーに出席

国際大学の看板
雄大なスケールの中に校舎が

信田研究所長と熊谷講師

講演する熊谷講師

日本が誠意を持ってと言っても国際社会から認証されていない。





























































































このオープンセミナーで感じたことは、日本が誠意と言って見ても、相手国に理解されていなければ、外交的にはマイナスの効果だと言う現実である。
 慰安婦が従軍慰安婦に拡大解釈され、世界には「性奴隷」として宣伝されている。

現時点では反論の糸口さえ見えていない。しかも、居丈高に反論して見ても、敗戦国としての立場から国際世論から同情さえされない現実がある。国内的な意見を統一して、同情を得られる国々と連携して一歩一歩改善する以外に方法はないと熊谷講師は学問的体系の中で述べられた。

 外交的には、アジア助成基金は、対韓国に対しては、多大な国民の善意の拠出があったにもかかわらず、効果があったとは言い難い現状だと報告された。

ガン病棟の温もり・・・中島昭治氏を悼む

私達は、国鉄が高度成長し始めた昭和36年に、高校から直接採用される臨時普通科13回生として国鉄新潟支社に入社した。
今の昭和大橋付近に木造の校舎があった。入社が決まって直後に、鉄道学園は火災で焼失し、新潟支社の建物の一部を借りての勉強であった。
私が、親友中島昭治に合ったのは、その時である。中島は六日町の五十沢からゴム長で出てきた。当時は除雪体制もなく、五十沢は豪雪地だから当然のことだった。私はお世話になった達治さんが皮靴を用意してくれたので、靴は履いていたが、どんな服装をしていたかは、思い出せない。
 二人で、専用線の線路敷きを歩きながらお互いの境遇を話し合った。

 中島は、六日町高校で陸上部に所属していた。私は長岡高校でレスリング部だった。その時の印象では、中島は均衡が取れて精悍に見えた。私はレスリングで鍛えたが、デブッチョだった。

 駅勤務の後、車掌科に進み、やがて新潟支社でも営業部に所属して親しい交流をしていた。退職後も、毎年一回、飲み会を継続してきた。

 親友小林久雄から、中島が入院したとの連絡が入った。その翌日、妻愛子を連れて、新潟のガンセンターに見舞いに行ってきた。妻愛子は左乳がん全摘の手術の手術を受けた直後で、経過がいいので、励ましの意味で連れて行った。

 7階の個室だった。中島と奥さんが迎えてくれた。苦痛そうだが、笑顔で迎える余裕があった。
 でも、すでに黄疸が出ていた。膵臓付近のガンで、周辺の異常を治療してからガンの治療をするとの説明だった。奥さんは、環境の激変に戸惑っておられた。

それから約一月。
昨日、逝去の報に接した。
今日9月5日が葬式である。
ガン病棟の緊迫した雰囲気の中で、夫婦愛の温もりを感じたことを思い出しながら、ご冥福をお祈りしたい。









 

産婦人科の減少が問題化

厚生労働省の2013年医療施設調査で分かった。

 全国7474の一般病院のうち、昨年10月時点で産婦人科や産科を掲げていたのは前年比12施設減の1375施設で、23年連続で減少が続いていることが分かった。

 厚労省の担当者は「訴訟リスクなどが敬遠されたり、少子化で出生数が減ったりしていることが背景にあるのではないか」と分析している。
 調査によると、産婦人科は1203施設、産科は172施設だった。二つを合わせた数は1991年から減り続け、99年に2千施設を、08年に1500施設を下回った。
 小児科も前年より22施設減って2680施設となり、20年連続減。
 また、13年病院報告によると、患者1人当たりの入院期間を示す指標の平均在院日数は30・6日で、前年より0・6日短くなった。
私の娘も産婦人科に通っている。子宝に早く恵まれたいと思っている。だが、新潟、長岡でも名医は少ないようである。一回の予約で20万円近くがかかるそうだ。新婚間際では経費が掛かりすぎる。その上、なかなか、いいお医者さんに巡り合えることは難しいそうだ。
少子高齢化で、子宝の育成こそ、日本の将来を確固たるものにするのだが、その基本がぐらつき始めている。

大きな病院でも医師不足が続いている。

摩擦抵抗と安全・・・抵抗がなくなると止まらない。



高所作業は危険が伴う。

道具の使い方や安全確保の知識が大切だ。





























日常生活で摩擦抵抗があるために安全について、あまり意識していない。
ここ数日をかけて屋根や庇のペンキ塗り替えをしている。
梯子での約4mの高所作業である。ワイヤブラシで錆や浮いたペンキをはぎ取る。錆留を塗る。ペンキで上塗りをする。入り組んだ作業を手順よく消化していた。

風呂場の屋根の仕上げの段階で、片足を梯子に、片足を屋根において塗っていた。仕上げ段階なので、うすめ液を多めに入れ、表面が平らになるように調合した。屋根側の足は左足で、左手にペンキ缶、右手に刷毛を持って作業する。

たった一筋のペンキが流れ出した。刷毛で分散して流れを止める。それを繰り返して3分の2まで仕上げた。左を塗り、右を塗っている最中に左足の摩擦抵抗がなくなった。気が付かないうちにペンキが流れて左足の下に入っていた。

しっかりと屋根に固定されていた靴が滑り出すと足が宙に浮く。でも姿勢を保ち、バランスを調整して安全を保っていたが。

摩擦抵抗がなくなる恐ろしさをいやというほど体験させられた。
突然左足の摩擦抵抗が全くなくなった。右足で梯子に体重を移動させたが、左足が全く効かない。体重を屋根に預けペンキ缶を何とか屋根におこうとしたが、左手も滑ってうまくゆかない。

やむを得ず、ペンキ缶をそのまま離した。ペンキの一部が顔や左胸にかかった。両手でバランスを取り、何とか両足が梯子にかかった。体が左寄りにあるため梯子が少しずつ右に動き出す。妻愛子を呼んだが、10mも離れたところで鼻歌を歌っている。
「梯子を押さえて」と鋭く叫んだ。あと15秒遅かったら、梯子とともに約4m落下したと思う。愛子がタイミングよく抑えてくれた為に、落下しないですんだ。

たった一筋のペンキの流れが、全摩擦抵抗を失わせてしまう。

摩擦抵抗のない世界は普段想像をしていないから、わかりにくいが、道路で急に氷を踏んで滑った感じである。

高所作業は、安全を確保がいかに大切かを身を持って体験させられた。

広島の豪雨で思うこと





信濃川河岸段丘の豊かな自然・守り抜きたい環境。



















誰も自分を守ろうと生きている。
裏山が土砂崩壊するなんて思っていない。
むしろ、見晴らしがいい場所が手に入ったと喜んでいたはずだ。

最近の自然は恐ろしい変化を来していると思う。
夏に雹が降る。こぶし大の雹だ。何かおかしい。
豪雨も一年分が一晩で降られたら土砂崩壊もやむなし。
人知を超える何かが変わっている。
意外と温暖化が大きな原因なんじゃないだろうか。
偏西風がどうの、潮流の変化がどうのの理屈は分からない。
地球を汚したつけが、しっぺ返しをしてるんじゃないか。
そんな思いをさせられている。

国鉄本社にいたころ、仕事で全国を旅した。
いろんな河川で白い泡が舞っていた。魚も鳥も住めない環境だ。
背骨の曲がった魚や奇形の鳥の事例が報告された。
水戸周辺で美しい海岸の松原が枯れはじめていた。
河川の汚濁は排水規制や洗剤の改良で解消されつつある。
松食い虫の被害は、未だに衰えていない。
いまだに全国で食い尽くしを続けている。
目に見えないほどの線虫のいたずらだそうだ。
防虫剤を散布して自然破壊すれば生態系全般を破壊する。
 レイチェル・カーソンのサイレント・スプリング(沈黙の春)を
地で行くこととなる。
 有吉佐和子の複合汚染で指摘された身の回りの環境汚染を確実に取り除くことも大切な生存権だ。
 
二つの事例から自然との共生を図れば、克服できる面もある。
中国の排気ガス汚染のように、垂れ流しは困る。
地球は一つだ。逃げる場所がない。
皆で自然の大切さを真剣に考えなければならない。

広島の豪雨災害を人災というのは簡単だ。
だが、その裏にある原因を突き詰めなければ、災害は克服できないと思う。


自分のことは自分で・・・DIYの精神



我家の全景、この陰に書斎兼作業場の2階建てがさらに1棟ある。





















数年前、はしご一つで我家の総ての壁を刷毛で塗装したことがある。
改良されたクレオソート的な木質防護材を使用した。
2段梯子を使ったが、最上部では恐怖感を覚える。
でも、当時の夏休みを使って、全部の壁面を塗り替えた。

塗り終えた直後の写真が上の写真である。

壁は直射日光や風雪で表面が荒れる。蜂が巣を作るため、
壁の木質部を削り取り、幾重にも筋ができている。

塗り替えで壁面が上品になった。壁材を変えられればいいが、
年金生活では二度の震災復旧もあり難しい。

その体験で、今回は、屋根の塗葬に挑戦した。
専門的には、次の作業手順を踏む必要がある。
① 錆と塗料落とし ② 錆留剤の塗布 ③ ペンキの塗布

専門店に相談したら、錆留剤とペンキが混ぜ合わせたものが出たとのこと。
これに飛びついた。作業場の庇を試してみた。素人ではあるが満足の出来栄え。
塗り斑は、あとから修正で刷毛を入れれば、塗り斑も解消される。

次に調子づいて、玄関の屋根とパネルの塗り替えに挑戦した。
屋根はチョコレート、パネルは銀ねずである。塗料のはみ出しは「うすめ液」で
取除き、一応満足に行く仕上がりになった。




















今日は、妻愛子を監視役にして、写真右側の下屋約4間の塗装に挑戦した。

ワイヤブラシで錆と塗装を剥がし、2回塗りした。




















林家こん平師匠は同級生・・・努力家

高校2年生の頃の写真


私とこん平師匠は、千谷沢小学校、千塚中学校の同期生である。
千塚中学の第7回生であった。彼と運動会の仮装大会で優勝したことがある。
尾関紅葉の金色夜叉に扮した。笠井光男がお宮で、私山﨑が貫一である。
優勝の最大の要素は、笠井の演じたお宮の歩く素振り、悲しみに泣くしぐさだ。

千塚中学卒業後、こん平さん・笠井光男さんは林家三平師匠に弟子入りした。
いや押しかけ入門に近いと本人が話していた。意志の強さを試されたのだろう。
門前払いをくって、3回目に玄関を上がることを許されたそうだ。
それから3年、掃除、荷物持ちが続き本格的な練習を付けてもら得るまで3年かかった。

私の心をとらえたのは、こん平師匠のこの言葉である。
「古典落語は、時流に乗っているもの、埋もれているものを掘り起して約200本を会得するのは当然。
更に新作落語100本を必死で作った。」・・・真打になるまで、一門の後見に認められるまでに。
さらに、所作、言葉の発声、話題の転換、機転等々に挑戦し続けたそうだ。
「新潟のコシヒカリ」、「カバンに多少の余裕があります。」もこん平師匠の言葉として定着した。

舞台がはねて楽屋を訪ねると、ステテコ姿で何回も会ってくれた。
まず、声の大きさに驚かされた。張りのある声で、楽屋に響き渡るように話しかけてくれた。

写真は、まだ本格的な練習を付けてもらう前の笠井光男である。でも希望に満ち溢れていた。

一門を背負う重責に堪えて、林家一門を三平師匠の遺児たちに立派に引き継いだ。

私山崎は、長岡高校に進み、剣道部に入ろうとしていた。剣道5段の父源次郎に憧れていた。
剣道部からも誘いがあり、ほぼ決めかけていた。父が反対した。頭を打たれると鼓膜を破れる。
たったそれだけの理由で反対した。解らなかったが、「勉強に専念せよ。」だったのだろう。
体格が良かったので、レスリング部に入った。バーベルや腕立て伏せ、腹筋で鍛えた。
最盛期には、60キロのバーベルを差し上げられるようになっていた。
写真の筋肉質は鍛錬の賜物である。

レスリングでは、当時東京オリンピックの強化選手阿部さんが浪花製菓に所属していた。
オリンピック選手を相手に練習ができた。だが、全く手も足も出なかった。実力の差は格段。
バックを取られると同時にホールに持ち込まれた。頑張る余裕もなかった。
この差を知ることで、実力とは、鍛練と精神力と自分自身の瞬発力だと思った。

中越地区で高校総合体育大会の交換練習があった。普段絶対に勝てない選手がいた。
県大会の優勝候補だった。3回練習したが完敗。歯が立たなかった。県大会で2回戦に合った。
作戦を立てた。真正面に行ったら絶対勝てない。3ラウウンド目の初めに首投げをかけた。
見事にホールに持ち込めた。高校の最期に県大会2位まで上がれた。
日ソ親善レスリング大会が長岡市の厚生会館で行われ、長岡高校が高校の部で出場した。
選手宣誓を命じられた。日報夕刊の半分を飾る写真が掲載された。遥かなる思い出である。

また大学進学をあきらめていたので、人生の試練に挑戦した。和同会会長に立候補した。
長岡の各中学校の動向も調べずに、たった5人の進学生しかいなかった千塚中から立った。
不思議なことに当選した。東大や一ツ橋に進学した優秀な副会長が補佐してくれた。
創立90周年記念式典と部活の遠征準備金をプールしておき、出場権を得た部に交付した。
大きな経費が捻出された。各部に一斉に配布して無駄になる部分が解消された。

良き友を得て、互いに励まし合った。長岡駅旅行センター所長の時、国鉄からJRに移行する記念行事に林家こん平師匠が一門を引き連れて馳せ参じてくれた。
お座敷列車にも落語で乗ってくれた。

















倫理法人会での講話について

平成26年6月16日に長岡市のアオーレで倫理法人会主催のセミナーがあった。

「未来創造セミナー」である。運営の精神に感動した。自分が起業するために、他人を犠牲にしないか、社会に役立つかが仕事をやる規範だと言われる。

河野滋氏の基調講演

その感動が冷めやらぬ間に、8月12日の朝6時から45分間の講演の依頼があった。テーマーは自由とのことで、「日本を元気にするために・・・温故知新の精神で」お受けした。日本は、終戦後の占領軍の占領政策とバブル崩壊時に二つの精神的な拠り所を失ったと思う。

一つは、日本古来の親を敬い、地域と協調する精神である。

もう一つは、バブル崩壊後の効率優先、低コスト優先の精神の普及で日本古来の精神構造が根本から否定され、協調や融和の精神が育ちにくくなっていることである。

8月12日午前6時から約45分間、長岡グランドホテル2階で講演のチャンスを頂いた。

長岡グランドホテルでの講演
大勢の方にお聞きいただいた。

道普請・・・過疎地での自然との闘い




今年は、小国町の千谷沢地区の山道普請の役員である。
5年位で当番が回ってくる。2時間かけて点検・検分をした。

山道普請のポイント。
① 道路を確保する。・・・路面の整備、両側の草刈り、側溝の維持管理。
② 水路を確保する。・・・法面の防護、貯まった土砂の除去
③ 土砂崩壊や、河川氾濫、河川の蛇行を修正する。等々
崩落した法面を削り、道路面を養生している事例

用水路を防護し、修繕した事例
用水路が1m以上浸食され崩壊寸前である。

ここ10年で田んぼが原野になった事例である。管理者不在。












蝶が遊んでくれた。・・・美しい蝶が


雨降りの中、植木の手入れをしていた。偶然、美しい蝶が私の周りを飛び始めた。

妻愛子が新潟に所用で出かけ、私一人で静かに蝶を観察した。
初めは警戒して、なかなか近づけなかったが、静かにしていると安心して近づくようになった。
私の周りを乱舞し、やがて雨に濡れた泥に停まる。
1年前の8月に亡くなった母松枝が合いに来てくれたのではないかとの錯覚を覚えるほどだった。

私が急な動作をすると飛び立つが、また、水たまりのところに帰って、蜜を吸うように
地面から水を吸っていた。最初は、スマホで電池が無くなるまでシャッターを押し続けた。

せっかくだからと思い立ち、ソニーのアルフアーを取りに行き、動画撮影を開始した。

約5分の撮影で、画面に入ったものだけを編集しアップしました。

私にとって初めての動画編集であり、FB及びブログに初投稿である。

古代歴史ロマン・・・ヌッタリの柵

妻愛子の所要で、新潟市東区役所を訪問した。

待ち時間に探索癖が抑えられなかった。ヌッタリの柵ののぼりを見つけた。

新潟市東区役所のあちこちに下の写真のぼりが

ヌッタリが沼垂でなく渟足とある。日本書紀の記述だそうだ。


観光係の方に質問・・・場所は未だに解らないと。

日本史で勉強したときは、すでに渟足として場所が決まっていると思っていた。

秘密の庭園のコンサートが開始された

7月5日(土) 秘密の庭園音楽祭がはじまる。

長岡市宮内摂田屋の機那サフラン酒本舗野2階奥座敷を舞台に。庭園を客席にして、
17時30分から開始された。
豊口協会長「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」の挨拶で幕が開かれた。


市民の協力で、この摂田屋の機那サフラン酒本舗を保存しようと呼び掛けた。



バイオリン滝沢大輔、篠笛佐藤直子、ピアノ吉田真弓で始まった。


観客は約200人 庭園を埋め尽くした。


真夏の雲が屋根を覆った。


琴の演奏が始まった。広井孝さん、吉田裕美さん


渡邊優子さんのフルート、ピアノ内山智子さんの演奏が優雅だった。


渡邊優子さんのフルート、秋丸八恵子の独唱


ピアノ権藤真弓さん、ボーカル秋丸八恵子


秘密の庭園コンサートの準備状況



 7月5日(土) 摂田屋の機那サフラン酒本舗の2階の座敷を舞台に、庭園を客席にして秘密の園のコンサートが開催された。
15時30分から、庭園と17時まで、庭園と離れ野座敷が公開された。

13時半に集合が掛ったボランチアが、のぼり、テント組み立て、座席設定に汗を流す。


2階座敷では、舞台セット、音響の調整で大忙し。


小国町からぎんなんアイスの販売車が到着。

アーチストが互いの音を確認し合う。

参加者が集まってきた。